昭和四十五年一月二十四日 朝の御理解

X 御理解第六十九節 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月(としつき)のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」


 「信心はみやすいものじゃが、皆氏子からむつかしゅうする。」と。本当に、ここんところがですねえ、教祖様は、「信心はみやすいものじゃが」とおっしゃるが、けれども信心だけは、そう、ここだけは教祖様のおっしゃるような訳にはいかん。やっぱ難しいと思いますねえ。皆んな、中々あげな真似はでけんとか、とてもあげんなでけんと。
 けれども、私は今日ここんところを頂いて、確かに信心はみやすいもんだと思います。何故、信心が難しいかというとね、おかげを目当てにするから信心は難しゅうなるのです。もう、それに尽きるです。
 ここで「信心がみやすい」とおっしゃておられる信心とは、御利益目当の信心じゃないのです。ここで信心と言うておられるのは、本当に信心なのです。ああなる程だと、こう思わしてもらいます。御利益目当ての信心にするから、一生懸命拝んでもみた、一生懸命修業もしてみた。そうりゃお参りもしてみたけれども、自分の思うようになりやあ、広大なおかげであり、思うようにならなかったら、おかげではなく、とても信心にゃあ私どもにゃあでけん。そら難しかということになる。
 よし、例えば、そのですね、その広大なというておるおかげを頂きましてもねえ、そのおかげはね、泡のようなもんですよ。二十年、三十年たっていくうちに、例えば、大変御比礼の輝いた教会で、おかげを受けられた信者さん達見てみるが一番いいです。もう影も、ほろ気も無くなっとる人達があります。もう私の知っとる範囲でも随分あります。
 親先生御在世中には、あのようにおかげを受けられた人達が、もう影も無いようになっておられる。勿論信心も無くなっておる。そん時に受けられたおかげも、もうどこえかに行ってしまっておる。皆さんの周囲見て御覧なさい。そうでしょうが。だからね、いかにおかげ目当ての信心でおかげを受けてもそのおかげはね、束の間のものです。神様の目から御覧になれば。
 だからここに、六十九節に言うておられる「信心はみやすいものじゃが」と言うそのみやすい信心をしなければ絶対駄目。
 みやすい信心とは、心、「わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」と、それである。おかげは和賀心にあり、それなのである。信心を求め和賀心を求めての信心。これならみやすい。みやすいと言うよりも楽しい。
 昨日の月次祭の前講を努めました、村山という青年の発表を聞いていて、それを本当にそう思います。ようやく、丁度、み月前の今日というですから、み月前の二十三日の月次祭の日に御神縁を頂いた。段々お付き合いをしておった女性と、結婚が成立した。もう、なんちゅう<か>釘茶まで行った。それが、まあ、ひょんなことから崩れてしもうた。
 そこで昨日、お話の中にも申しておりましたように愛とは何ぞやと。そこに日々(にちにち)苦しんだ。煩悩の毎日を見ておる、そばで見ておる妹さんが、お兄さんが可哀相になった。妹さんは、ここへ、しげしげと参ってくる。お母さんを早く亡くしましたから、ここに、もう、もう本当に、「親先生、親先生を、お父さんお母さんと思っていいですか」と言うて参ってくる。「いいよ」と。
 もうそれから、何でも、どんなことでもお届けをする。良い着物を作ったというと良い着物を着て見せに来る。髪を結うたとゆうちゃ見せに来る。職場でこういうことがあった、ああいうことがあった、もう逐一お届けをする。そういうことまでお届けせんでもよかろうと思うようなことまでお届けをするという程しに、まあここへ、ひとつの帰依を捧げておりますから、兄さんに、とにかく一遍合楽に参ってごらん。親先生の話〔を〕聞いてみなさいち。まあ、無理に勧められて、み月前の二十三日の昼にお参りをして来た。
 そして、お取次ぎを頂いたら、「人間の幸せは、人間のおかげ、お道で言うおかげと言うのは、自分の思うようになりますようにという、そのことが成就したことがおかげではなくて、自分の心が和賀心になること。和らぎ賀ぶ心になることが、おかげなんですよ。」とゆう御理解であった。
 私は本当に、このおかげを受けるというか、理解力があるというか、そのキャッチ点がですね素晴らしい人は、やはり信心が成長致します。もうその時に、それこそはじかれたようにびっくりした。人間の幸せとは、良い自分のね好きな女房をもらう、商売が繁盛する、健康である、人間関係が具合よういく。そうすれば幸せとばっかり思うておった。
 ところが、その根底をなすものは、人間はこの和賀心、和らぎ賀ぶ心になると言うことが、幸せの基礎になるものだと。お参りをして来るたんびに、若い先生達を捕まえては、一生懸命に、和賀心とは、いわば、何ぞやである。愛とは、何ぞやである。その愛を得(う)る為には、または、その和賀心になる為には、とゆうその検討から始めた。
 まあだ、百日足らずの今日(こんにち)、「そのことを分からせて頂いたとゆうことが、有難とうてたまらん。」と言うております。「それを思いよると、涙がこぼれる程有難うなる。」と言います。和賀心が頂けたのではない。けれども、本当のことが分かったとゆう喜びなんです。
 昨日、お話の中に申しております。「これで結婚させてもらう資格がでけた。」と言うておる。「この心、ここんところを分からずして、結婚ようも、過去の、いわば結婚が崩れて良かった」と。「幸せとゆうものを、とうとう分からんずくに結婚に入るとゆったような、目先目先のいわば幸せに、一喜一憂することであったであろう自分がです、結婚に破れたおかげでです、人間は、この和賀心和賀心これが幸せの土台なのだから、その和賀心を頂いていく術、頂いていく道を分からせて頂いたとゆうことがです、どのようなことがあってもそのことを通して、その問題を通して、そこから和賀心を求めていこうとする自分が、姿勢がでけた。これで初めて、結婚する資格がでけた。」と言っておる。
 そして、「幸せとは自分の心が生き生きと喜びに満ち溢れる。その生き生きと満ち溢れたその喜びが、自分の周囲にも伝わっていく。そん時に本当の幸せは有ると私は確信します。」と言うて話しております。
 「信心はみやすいもの」と、そこが分かった時、初めて信心はみやすいものになってくるんですよ。信心の稽古も、修業も、道を習うも、みな、その和賀心を求めてのことですから。
 <いいえ>「信心はみやすいもの」とおっしゃるけれども、みやすうはない。それは、御利益を目当てにしておるから難しい。
 ひとつ皆さん、根本的なところですから、ようくここんところが分からにゃいけんです。もう今日から過去の信心は一遍投げ捨てたとゆう思いでですね。新しく今日から信心が誕生するとゆう思いでです。
 信心とはみやすいもの。何故、みやすいかと言うと、御利益を目当てにしていないからみやすい。御利益を目当てにして、よし、おかげを受けたにしても、そのおかげは、もう神様の目から御覧になれば束の間のもの。それ《は》、二十年、三十年続くかもしれんけれども、その証拠には私共の周囲に、あちらの先代がお徳を受けてござった。あの時分はたくさんな信者がおった。皆さんがようおかげを受けた。そうゆうおかげの後を、一遍見て御覧。そのおかげが続いてはいないでしょうが。そうゆうおかげを今、合楽で頂いておったって仕方ないです。同じです。
 「信心はみやすいもの」と言う、その信心。とにかく、どのような中からでも、和賀心を求めていこうとする姿勢。そうゆう信心を身に付けて、そこから頂けてくるところのおかげであってこそです。初めて神様のおかげでとゆうことになるのです。
 昨日私は、同じようなお届けを二つさせて頂いた。まあ、名前をはばかりたいけ〔れ〕ども、はばかったんじゃ実感が無いから申しましょう。三橋先生のお里である所の秋山さん、五百万〔円〕からの、ある人の保証に立って、その会社が倒産しかかっておる。「どうぞよろしゅう」とゆうお願いであった。
 昨日夕方、正義さんが参って来て、これは二千何百万〔円〕とゆう保証に、それは、業者が、何にもです、本家の小川組かなんか、皆んな〔がです〕。ところが、それが倒れるとですね、皆んなが倒れる<と言う訳です。>今の私共の業者で、そんな力量のあるとはおらんち。そん為、その、〔今日は〕善後策を練らにゃならんから、今日は是非出て来てくれと言うから、お月次祭ですけれども、〔月次祭には〕出られんと言うて来た。
 お願いをして頂いたおかげはもろいです。だからお願いをして、例えば、そこんところから倒産するところを倒産せんように、ひっかかるところをひっかからんように、過去のことは、お詫びはお詫びとさせて頂いて、まあ、おかげを受けてゆかねばならんと思いますけれども、そうゆうおかげじゃいけんでしょうが皆さん。
 和賀心に生まれたところのおかげなら、もう全て一切〔が〕あなたの御ものとゆう自覚が、これはもう絶対強くなる〔の〕です。ですからね、例えば判ひとつ押すでも、とても私が押す、押せるはずがないです。
 本当に大地を拝んで、「女が菜園に出た時に、大地を拝むような心あらば、おかげはあると、それを煮て食する時に神様頂きます、とゆう心あらばさわることなし」とゆうことになっていないのです。大地を拝むことは拝んでおかげは頂いた。おかげは頂いたけれども、それを食する時に神様頂きますとゆう心がなかった。もう、おかげを頂いたちゃけん頂いたちゃけん、もろうたっちゃから自分のもん。そうゆうことになるんです。だから、いうなら自分のもんと思うとるから軽々しゅう判も押すのです。
 ですから、そうゆう倒れかかりよる時に倒れんように、もう死にかかりよるとにが助かるようにとゆうようなです、なる程、おかげも受けられるです。お取次ぎの働きとゆうのは、そのように、素晴らしいことになってくるんです。
 け〔れ〕どもね、そうゆう信心は、今日私が〔言う〕、信心じゃない。いや、それは難しい信心だと言うておる。お百度参りしてから、おかげを頂いたといったようなおかげはね、もうそれは束の間のものです。
 「信心はみやすいものじゃ」と。それは、御利益を目当てにしない信心であって初めてみやすいとゆうことになるでしょうが、皆さん。そげなこつ言うならば馬鹿んごたる。お参りしてからおかげを目当てにせんな〔と〕。
 さあ、そこなんです。いわゆる人間の幸せはここに有りと、まず悟らにゃいかんです。そうだったと。村山君が、昨日言っておるように、人間の幸とはこれだったと。
 いわゆる、「おかげは和賀心にあり」その和賀心を頂いて現れてくるおかげであるならばです、それは、いよいよ嬉しいもの、楽しいもの、いよいよ全てが神様のおかげによってとゆうおかげになってくる。
 「氏子からむつかしゅうする」と、なる程御利益目当てにして、信心しておかげを頂くとゆう生き方に傾いてくるから、信心は、いよいよ難しゅうなってくる。いわゆる願行的(がんぎょうてき)な信心とでも申しましょうかね。願行によっておかげを頂く。
 ところがですね、そうゆう、例えばみやすい信心に入っても〔です。〕昨日の村山さんの話からしてもそうです。例えば、そうゆうふうにして、昨日、なら、たったみ月位で、ここを分かったとゆうことが有り難い、と言うておるような信心でもです。まだ、三年、五年では、まだ迷い易い、と言うておる。さあ、そこが人間の弱さなんです。
 和賀心を求めて、本当に嬉しい有り難い勿体ないとゆう信心がです、合楽にお参りをさせて頂いて、毎日毎日その和賀心が育っていく糧を頂くのだ。もうそれが楽しゅうてたまらん、そうゆう信心をです。〔そ〕んなら、あげん有り難い有り難い、こげん有り難い教えを頂いてと、例えば言うておっても、さあ、そこが人間ですからやはり迷いが生じてきたりすることがある。
 いわゆる三年、五年では、まだ迷い易いと、そこのところを、私は節と思う。十年がかりで育つところの、例えば、一年に一遍づつ節があるとしてです、十回の節を見事に乗りきり、登りきって初めて十年。
 なる程これならね、十年たったら和賀心が祭れると思いますよ。和賀心を求めて、しかもそれがどのような場合に直面してもです、節にあったてもです、その節をやはり元気で乗り越えさせて頂いて十年。我ながら喜んで、ようもようも十年間、この有り難い勿体ないの信心が続いたとゆうこと。いや、有り難い勿体ないを求めての信心が続いたとゆうこと。「日は年月(としつき)の初めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよい」
 私、今朝方、御祈念中に頂いたことがですね、『テレビでですね、何か洗剤だろうか何かの宣伝をしておる何とかという喜劇役者ですよ。ちょっとチョボ髭をはやしたね、頭の、こう、いっぱい禿げた人がね、禿げたカツラをかっぶてるんでしょうけれど、何か自分の頭を、こうやって押さえてピ-カピカちゅうのがあるんですよ。あれは何か、こう、何ですか洗剤か何かでしょう。あそこんところを頂くんです。本当にそれこそ後光が差すようにピカピカ〔に〕光っておる。』
 これは、いわゆる髪が無いとゆうことです。髪がもう抜けてしっまて〔い〕るから、頭がピカピカ〔に〕光っている訳です。いわゆる信心が無いとゆう意味だと思います。それがね、いかにピカピカ光っておる程しにです。例えば、親の財産なら親の財産、親の光が七光といったようなこと〔を〕申しますが、どんなに光があっても、信心抜きにして、無くして光っておるのであっては、それは丁度、頭の禿げて光っておるようなもんです。
 もう絶対そうゆう人は素直になれません。それこそ、そうゆう、はいすべりと言うですかね頭の禿げておる人の事を、はいがすべるちゅう訳です。ピカピカ、スルスルしとるから。はいとゆうことは素直〔だ〕とゆうことだと〔思う〕。はいと言えないんです。
 けれども私はね、今日は信心の無い人の、無くて例えば財産を作ったとか、人物が出来たとか、または名誉職に付いたとかといったような、世間で言う、まあおかげですね。そうゆうものを受けておるのはです、それは丁度、頭が禿げて光っておるようなものであってね、私は信心を頂いておってもです、いいですか、信心を頂いておっても、いわゆる御利益とゆうことだけを目当てにして信心させて頂いて、そのおかげで光っておるのは同じ意味のことであると私は思います。
 本当《に》今日の、「みやすう信心する」と言う、みやすい信心ではない。難しい信心を、私は、それは、髪は無いものだと思います。
 それこそ黒々とした、ふさふさとした髪の毛がある。それでいて光を放つとゆう信心でなからにゃいけません。本当に、その人の心から、いうなら後光が差すような信心なんです。
 それは、どこからかというと、和賀心から発する光なのです。喜びの心が光になっておるのです。おかげが光っておるのじゃないです。私はそうゆうようなお知らせを頂いて、今日はこの六十九節を頂きました。
 せっかく、信心させて頂くのでございますから、ここに言うておられる「信心はみやすいものじゃが」とおしゃる、そのみやすい信心をとらなければいけません。いや、気付かなければいけません。悟らなければいけません。そこで、和賀心になるための修業、和賀心になるためのお話を頂かせてもらうのです。だから、問題はそこに焦点を置く以外にないのです。
 御利益目当ての信心だから難しいです。自分の思うようにならん、いや、御利益を頂こうと思うて頑張っとる。けれども、思うようにならん。だから、きつかです。これは、もう自分がその気になりゃあ絶対。
 村山青年が言っておるようにです。これだと、ここに、信心は、「おかげは和賀心にあり」と言う、和賀心とゆうものをです、目指すとゆうことが、人生の幸せの根本になるものだと分からせて頂いた時に、もうこれなら家内をもろうても良いとゆうこと。家内を幸せにすることができる。自分の喜びを家内に与えることができる。そこに本当の夫婦の生活がある。そこから生まれてくるものを真(しん)の愛とゆうふうに分からせて頂いた。その喜びがですね、毎日、有難うしてたまらんとゆうことになった。
 けれども、そこは、今さっきも〔言ったように〕三年、五年ではまだ迷いやすい。何故って、必ず節がくるから。神様は有り難い有り難いと言うておるとです、本当に有り難いかどうかとゆうことをね、神様御自身がお知りにならなければならない必要を感じられます。氏子が有り難い有り難いと言うておるが、本当にどのくらい有り難いのか、その、どのくらい有り難いのかをです、調べる必要を神様は絶対に感じられます。それを、教祖様は「皆さん、用心なされ。信心に身がいってくると神様のお試しがありますぞ。」と、言うておられます。
 信心に、身がいってくる、有難うなってくるとです、「神様のお試しがありますぞ」とおっしゃる。それを乗り越え乗り越え十年させて頂いたら、なる程我と我が心が祭れるだろうと思いますねえ。そうゆう心にです、表れてくるおかげ。これならもう、絶対<のもの>。神様頂きますと言わなければおられない。だから、どのようなことに使うてもさわらないとゆうことになる。
 その日その日がなんとはなしに立ち行っておるならばです、それでいいじゃないかと。欲をはってあれも下さい、これも下さいと言わんでもいいじゃないか。それよりも、急がなければならんのは、みやすうと言うておられる、いわゆる和賀心です。和賀心をいよいよ深め、または高めていこうとあらゆる事柄の中から、その中から、悲しいけれども有り難い苦しいけれども有り難いとゆう心を求めて信心をさせて頂く。
 今日の御理解を頂いて貰うてです。皆さんに頂いて貰うて、同時に分かって頂かなければならないことは、今私が申しました禿頭の光ではつまらん。形の上に表れておる頭が禿げておるから、ピカピカ光っておるとゆうようなおかげじゃあでけん。これは、信心の無い者を指してあるけれども、信心があっても、ただ、おかげを頂いたとゆうその御利益が光っておるとゆう信心じゃあ駄目。その人の心が光っておる。そうゆうおかげを目指さなければならないとゆうことを、ひとつ、心の底にですね、思い知らせておかなければいけません。いいですか。
 そして、「信心はみやすいものじゃ」とおっしゃるが、なるほど信心はみやすいものじゃと、私は昨日今日の言葉を借りると、それを実証してゆかなければならん。教祖様が、「信心はみやすいもの」とおっしゃるけれども、これだけはみやすうはなかと、難しかと、いかにも教祖様が嘘ゆうてござるごとある。
 そうじゃあない。教祖様は、やはり、本当なことしかおっしゃていない。なる程、信心はみやすいものじゃと、それは御利益を目当てではなくて和賀心を目当ての信心であるなら、なる程みやすいと、やはり、翻然(ほんぜん)とひとつそこからね、悟らして頂くものがあらなければなりません。
 そして、その和賀心をいよいよ追求して行く。そこに楽しみを感じられる信心。そこから日に日に立ち行くことろのおけげを受けてゆくとゆうことはです、御利益を目当てにしてもおらんのにこのようなおかげを頂いて勿体ないとゆうことにもなりましょう。
 そこは、おかげは受け徳受け勝ちなのだ。和賀心に伴うてくるところのおかげ、そうゆうおかげこそ私は、受け徳であり受け勝ちだと思います。
 そして、その日その日が立ち行くおかげを願わしてもらう。信心をどこまでも、みやすう和賀心を求めてそこにです、いろいろ工夫がある。和賀心になるための修業、寒修業なんかは、そうゆうことになりましょう。本気でみ教えを行じていくとゆうことに焦点を置く。そこから、教祖様のお言葉が、証が立てられる。そこに、神様の〔お〕喜びがあり、私どものまた、喜びがある。そうゆう繰り返し、日々なのですから、これは、いよいよ信心はみやすいものである楽しいものであるとゆうことになってくるのじゃあないでしょうかね。
 それでも、まだまだ、三年、五年では迷い易い。あれ程、有り難い勿体ないと言うておった方がやはり、それで、ピシャッと止まる人もやっぱあるのですから。
 〔だから、〕村山君の信心に、今はまだ有り難くてたまらんところですから、節が来た時にです、その節を乗り越えるために、これは、本気で朝参りなっとんせにゃあ、修業せにゃあとゆうような心がおきてくるでしょうよね。
 その頃から信心は、また、本格的な和賀心が生まれてくるでしょう。そこは、繰り返し十年と続いたら我と我が心をです、我ながら喜んで我が心を祭れとゆう程しのことになってくる。そうゆう信心に、そうゆう信心に伴のうてくるところのおかげ、これならば私は、いついつまでも続くおかげだと、それは消えるものではない。そうゆうおかげを目指して信心させて頂きましょう。
 どうぞ、もう一遍、その信心〔は〕頂いておっても、信心はだんだん薄うなっていきよる。ところがやっぱ、おかげは頂きござる。そうゆうおかげが一番危ない。いわゆる、和賀心が募ってくれば募ってくる程、やはり、合楽通いは、二辺《が》三辺、三辺《が》五辺になってくるのが、いわゆる和賀心が募ってくるからなのですから。
 その、和賀心が募ってくる、その情念とゆうかね、それが私どもの信心の形を作ってゆく。いわゆる、和賀心を祭れるところまで、それが押し進められて行く。そうゆうことになってきたら、信心もいよいよ、有り難いですね。教祖様は、確かに嘘はおっしゃてはいない。なる程、信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうする。いつの間にか御利益御利益、おかげおかげを言うようになるから、難しゅうなってくるのです。どうぞ。